くずみーのくずかご

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時をかける公務員

「公務員は時をさかのぼれる能力があるからね」

と、横山林太郎はやれやれという面持ちで言った。

 

 K市役所で働く横山は、県庁で働く植木と話をしていた。愚痴を言うとき、よく口にするのがこの冗談だった。今現在がいつであれ、書類を過去にやり取りしたことにして処理をする…。K市役所では日常的に行われているものであり、誰もそれについてもはや疑問を抱いてはいなかった。窓の外では木々が赤や黄に染まり始めるのを横目に、「4月1日」と日付の書かれた書類をバインダーに挟んで回覧板のように隣の人の机に置く。“起案”と呼ばれるこの行為は、役所で実施する物事について、部署の人間や上司の承認を得るために行われるものであり、稟議(りんぎ)と呼ばれることもあった。自分の机の上には、同じく「4月1日」の書類が、部署の全員、そして上役の承認印とともに戻ってきていた。この書類は、4月1日に処理されたことになった。もっと言えば、4月1日に市内の企業から受け取り、部署員や上司など全員が目を通し、承認したことになった。これから行う作業によって、市役所としての印が押された承認文書が4月1日に相手方に届いたことになる。今年の4月1日を思い返してみると、異動する前任からの引き継ぎ作業でてんやわんやになっていた自分が浮かぶ。もちろん起案どころではない。

 

 「結局こんなこと絶対できないってみんなが分かってるんだから、やめちゃえばいいのにさ。4月1日なんて民間企業も異動やらでばたばたして書類のやり取りなんかできっこないのに、俺の担当だけでも4月1日に書類のやり取りを3往復したことになってる。それも10件。押印がいる正式な書類だよ?郵送しなきゃいけないんだよ?いくつかは県外だし、郵便屋さんはいつからワープサービスを始めたのか教えてほしいね。」

 

 「まぁまぁ。お役所なんてそんなもんでしょ。市民やら県民やらからいろんなこと言われるのが世の常だから、融通なんて利かせられっこないよ。仕方ないね」

 

 「そうだけどさぁ…」

 

 横山は今の仕事に不満が多かった。

 やりたいことや夢はなく、「安定」「定時退社」「ぬるま湯」というような、公務員のイメージに憧れて、K市役所に入った。しかし、確かに安定はしているが、決して毎日定時退社というわけではなく、忙しいときは日付を超えるまで職場に残ったこともあった。他の公務員の知り合いに聞いてみても同じようなものだった。

 しかも、K市役所の中は上からの権力が不条理に働く社会だった。精一杯検討を重ねて妥当な判断をしても、それが権力者からの一言で捻じ曲げられることも多々あった。結果、その不条理な判断に、「権力者に言われたから」以外の妥当な理由を考えなければならなかった。口が裂けても市民には「市長とコネがあったのでこの業者を選びました」なんて言うわけにはいかない。

 

 「ま、ありがたいことに安定はしてるわけだしさ、世間からは悪くみられることがほとんどない職だってことで、妥協するしかないよね。トレードオフだよトレードオフ。」

 

 「そういう大人な考え方ができるの、素直にうらやましいよ。」

横山はぬるくなったコーヒーをすすった。

 

 

 翌朝、いつもと同じように出勤した横山は、机の上に封筒が置いてあることに気が付いた。差出人は会計検査院。自分に会計検査院から封書が届く覚えはなかった。どうせ誰かが間違えたのだろう。後で何かのついでに総務へ持っていこう、と思い、横山は総務課のある方に目を向けた。

 ふと部屋の角に置かれた箱に目がついた。「未決」「既決」と書かれた箱は、A4より少し大きいくらいで、高さは5、6cm程だろうか、書類を入れられるようになっている。課長以上となると目を通さねばならない起案の量がハンパではなくなるため、こういった箱に入れられる。承認前である未決箱から起案を取り出し、チェックを終えたら既決箱に入れる。既決箱の起案は事務員が次の決裁者の未決箱へと運ぶ。毎日この作業を行っていても、役職に就いた人間の未決箱はいつも山になっていた。しかし、今日目についたこの箱は違う。何も入っていない。柱の陰になるように置かれたこの箱は、部署の誰の机からも遠く、使い勝手の悪い位置にあった。

 いつからこの場所にあったのだろう。全く覚えていない。ずっと前からある気もするし、見覚えがない気もする。

 この箱に起案を入れたら、一体誰が見るのだろう。横山は、この誰のものともわからない箱に起案を入れてみたい衝動にかられた。何故だかわからないが、意味不明な場所に置かれた箱がひどく興味を引く。この箱に起案を入れたら、何かが起こるような気がした。

 「誰も触らないのであれば自分で引き上げればいいし、もし誰かのもので、起案を回す順番が違ってしまうなら『間違えました、へへへ』って謝ればいいだけだよな」

 独り言をつぶやきながら、起案を箱に入れた。

 

“4月1日 文書番号K1820

 起案者:企業振興部 主事 横山林太郎

 タイトル:飲料水「K市の水」販売委託先の決定についての伺い

内容:飲料水「K市の水」販売委託先はG社とする。G社は昨年度の実績もあることから、ノウハウがあり、当事業に最適であると考えられる。

契約期間は4月1日からとする。

G社へ送付予定の文書は次の通り。

平成28年4月1日 G社代表取締役 ××様

……

 

 横山は今日も始業3分前に着席した。K市役所の若手はだいたいこのくらいの時間に揃うので横山は特別遅いというわけではなかった。朝のメールチェックを終えた横山は、あの起案のことが気になっていた。箱に起案を入れてから2日経つ。来客対応などに追われて忘れていたが、一度思い出すと気になってしょうがなくなった横山は部屋の隅へと足をのばした。

 起案は消えていた。一瞬ドキリとするが、すぐに冷静になる。起案には自分の名前も書いてあるし、決裁ルートもしっかり書いてある。特に問題なく起案が進んだのだろう。

 心のモヤモヤを抑えながら、いつも通り起案が自分の机に返ってくるのを待つことにした。

 

 

 翌日、横山が出勤すると、机の上に例の起案が置かれていた。ちゃんと上役の承認印も押されているし、間違いを指摘する書き込みもない。横山はほっと胸をなでおろした。

 いつもの通り起案によって承認された4月1日付の書類を整備して郵送すれば、4月1日に書類をやり取りして、4月1日に契約を結んだ証拠が完成する。「4月1日から契約した証拠の書類」が、「過去にさかのぼって契約したズルの書類」となってしまうことを避けるための措置だと頭ではわかっても、こっちはこっちで嘘っぱち過ぎて笑えて来る。

 乾いた笑いを噛みながら横山は受話器を取る。“委託契約の件ですけど、手続きが終わったので書類を送ります。”“はいわかりました、それでは!”というシナリオを準備しながらコール音を聞く。

 「はい、G社です」

 「もしもし、K市役所の横山ですけど」

 「あぁ、お世話になっております。担当の下田です」

 「お世話になっております。お話ししていた水の委託販売の件ですけど、手続きが終わりましたので書類を送りますね」

 「えっ、なんの書類でしょう」

 下田の素っ頓狂な声に横山は拍子抜けする。

 「ほら、先週からやり取りしてたじゃないですか、K市の水の委託販売。4月1日からの契約の」

 「はぁ、契約は4月1日に結びましたよね。報告書は年度末にならないと提出できないんですけど、何かやり取りする書類、ありましたっけ?」

 訳が分からなかった。確かにG社の下田とは先週、契約について打ち合わせていた。K市役所と関わりが多いG社はK市役所の都合にも精通しており、日付を自由にできるよう日付を抜いた見積書や請求書を発行するなどして、市役所内では重宝されていた。しかし、こんな行き違いは初めてだった。

 「まだ契約結んでませんよね?今手続きが終わったところなのに…」

 「4月1日にやったじゃないですか。大変だったやつですよ、4月1日に契約するために会社と市役所何往復もしたんですもん。仕方ないとはいえ、あれは来年とかから何とかならないですかね、ははは」

 「い、いや、だって書類は手元に…」

 と言いながら起案の終わったその書類をめくると、書類発行済みを意味する割り印が押されていた。起案には文書の下書きを付け、必要があれば誰かがそこに書き込み、決裁後に綺麗なものを改めて印刷し、下書きと正式書類で割り印を押す。この割り印で正式に書類を相手方に送ったかどうかを判別する。そこには確かに割り印があった。

 「…すみません、僕の勘違いかもしれません。また確認しておきます。」

 そう締めて、横山は電話を切った。自分でこの割り印を押した覚えは一切ない。しかもG社は4月1日に契約をしたというのだ。ありえない。もしかしたら疲れているのかもしれない、ということにして、今日は定時で上がろうと心に決めた。

 

 

 横山は、L鉄工所から提出されてきた報告書をバインダーに挟み、起案の準備をしていた。K市役所は企業に補助金を交付する業務も行っており、横山はその担当もしていた。報告書の提出締め切りは7月末であったが、再三の催促もむなしく、紅葉の時期にやっと提出されてきた。市民の税金を何百万円も自分たちのために使っておきながら、なんと酷い態度かという憤りももはやわかなくなってしまうほどに、このようなことは日常茶飯事であった。横山の不快感とは反して手続き書類と起案の日付は、7月31日。期日通りに行われている体で処理をする。

 横山はまた、この起案を例の箱に入れてみようと思った。先日の一件によるモヤモヤを何かの間違いだったと認めたかった。多少処理が遅れてももはや誤差だ。そう思って、起案を部屋の隅へと持って行った。

 

 

「そういえば、なんですけど。報告書っていつ出してもらったんでしたっけ」

「やだなぁ、締め切りが7月末なんだから7月末に出しましたよ。そうそう、補助金の支払いってまだ時間かかりそうですか?報告書出してから結構時間経ちましたけど」

 L鉄工所との電話で、横山の中で1つの仮定が生まれていた。どう考えてもL鉄工所から報告書が提出されてきたのは10月頭だ。それを確認したくてわざわざこんなわかりきっていることを聞いた。いくらだらしない企業とはいえ、こんなわかりやすい嘘をつくほど馬鹿ではないはず。そんな嘘をつく理由もない。そして、先日のG社の例もある。「なぜだかはわからないが、例の箱に入れた起案は日付通り処理されたことになる」と、思わざるを得なかった。にわかには信じがたいものだった。

「支払いですね、すみません少々手間取ってまして。今月末には振り込みますので。」

補助金の振り込みは通常、報告書を確認してから行われる。実態の確認できないものに税金を支払うわけにいかないからだ。横山の頭では、10月頭に書類が提出されてきたので、起案の時期も踏まえて10月末に支払いをするという予定でいた。しかし今、7月末に書類は処理され、2か月近くも支払いを待たせているという事実が生まれてしまっている。企業に瑕疵がなくなっている以上、横山の怠慢であると思われてもおかしくない。

横山は、疑念を確信に変える意味合いも込めて起案を回すことにした。

 

“7月31日 文書番号K1968

 起案者:企業振興部 主事 横山林太郎

 タイトル:L鉄工所に対する補助金の支払いについての伺い

内容:K市企業振興事業補助金の支払いについて、別添の通り金額を確定した。

   支払いをしてよろしいか。支払い日は7月31日とする。

 

 

 

 起案の日付が現実のものになる能力があれば、業務上遅延が起こっても自由に対応できるようになる。繁忙期に起案を忘れて相手方を待たせても、ストレスなく処理できる。

「事業のその後はどうですか?ちゃんと7月末にお金振り込まれてましたよね?」と訊く横山に、L鉄工所は「はい!ありがとうございます!」と返した。決定的だった。日付通りに物事が行われたことになる起案ができる。その力を手に入れた。仕組みや原因はわからないが、実際に現実になっている。

 この夜、横山は興奮して眠れなかった。

 

 

 

 横山は、起案箱に色々なパターンの起案を入れてみた。まず存在しない日付。10月32日と11月31日の起案を回してみた。起案は翌日横山の机に戻ってきていた。ハンコや書き込みは一切なく横山が箱に入れた状態そのままだった。次に、未来の日付を入れてみたが同じ結果だった。前年度の起案は問題なく決裁が行われた。すでに支払った補助金について、日付をずらして起案してみたところ、支払日を変えることができたのだ。

 前年度の起案の改変に成功したところで横山は思った。一連の起案は、日付を操作できるのではなく、“過去の事実を改変できる”のではないだろうか。もしこの仮説が正しければ、起案で決定されるようなこと全てが自分の思い通りになる。どんなことをしようか。横山は考えることをやめられなかった。

 

 

 今日の会議が終わり、横山は席に着いた。不機嫌が顔に出てしまっているのが自分でもわかる。今日の議題は横山の部署である企業振興部から、新商品開発に取り組む企業に交付する補助金についてだった。そこに、“力”が働いたのが横山の不機嫌の原因だった。市議の副議長から部長を通して圧力がかかった。副議長の甥が経営している喫茶店もこの補助金に応募していたのだが、それを採用してくれ、というものだった。一応お願いの体ではあるものの、市役所職員からの依頼を部長という立場で断ることはかなりの困難であり、市議であればそれを分かって言っているのだから、実質的な強制力を持った発言だ。

この喫茶店の申請内容はひどいものだった。流行りに乗ってマカロンを使用したケーキを作る、というところまでは何とか我慢できるものの、K市の野菜を織り交ぜて作るという。これによって通常の倍近くの価格になっている。税金を投資する以上、効果のありそうな、つまりは売れそうなところに補助金を出して、企業が儲けることでK市の活性化や名物づくりを図るというのがこの補助金の趣旨であったが、この喫茶店の商品は素人でも「売れない」という予測がついた。“地元の野菜を使ったケーキなら価格が倍だろうと多少変な味だろうと買う”という人間が一体どれだけいるかを考えれば、補助金を出すかどうかは容易に判断できるものだった。

 

地産地消がどんだけ偉いんだよ。地元の野菜がどんだけ偉いんだよ。なんで値段が高いにも関わらずそれだけの付加価値で消費者が買うと思うんだよ。お前の食卓には地元のものしか並んでないのかよ。」

舌打ちをする。普段胸の内に抑えてきた苛立ちが溢れる。

 

 予算が限られているので、応募が来たすべての案件に補助金を出すことはできない。そのため、より優れたものを選考し、補助金を交付する。そこには採択と不採択が生まれるが、そこを権力で捻じ曲げられた。不採択が採択になったのなら、その逆もまた生まれる。

 蹴落とされたのは、横山の友人が働いているT鮮魚店の新商品開発だった。中学時代からの友人で、国公立大学で経営を学び、就活では大手を狙える実力を持っていたが家業に入り、次期社長として奮闘している。素直に尊敬できる人物だ。鮮魚店という一昔前ともいわれるステージで、若さを生かして時代に合った商品を企画しており、横山も相談に乗っていた。無論、市役所職員としてではなく1友人としてであり、受かるか落ちるかに関しては横山にはどうしようもない問題だった。真っ向勝負であり、真剣勝負だった。しかし。

 ここであの力を使わないでどうする。

 

 

10月1日 文書番号K2038

 起案者:企業振興部 主事 横山林太郎

 タイトル:新商品開発補助金採択企業についての伺い

内容:新商品開発補助金採択企業について、別紙の通り決定してよろしいか。

 

別紙

M工業所

パティスリーY

T鮮魚店

 

 

「横山!ありがとう、お前のおかげだよ!これで安心して商品開発ができる!お前が口利きしてくれたのか?」

「俺みたいなただの1職員にそんな力はないよ、俺は書類の体裁を見ただけ。お前が夜中まで頑張ってた成果だと思うよ。」

「いやいやお前が書類を見てくれなかったらこれはなかったよ。ありがとう。」

 

実際は口利きよりも強い力を使ったなど、言う必要もないし信じてももらえないだろう。ずるいことをしたわけでもなく、あるべき姿に戻しただけだ。

 横山は部長のことが気になっていた。副議長の依頼を無視したような形になってしまったのではないかと心配していた。しかし様子をうかがってみても普段と変わらない。「偉い人から『採択してよ』とか依頼されることないんですか?」などとすっとぼけて聞いてみたが「そりゃたまにはあるけどね、立場的には逆らえないよね」と返された。ついこの間の出来事を聞いているのに、普通ではこんなことはあり得ない。

 あの起案は、物事が最も自然な形で納まるよう過去が改変されるのかもしれない。部長の立場で副議長の“力”をはねのけることはあり得ない。きっと、副議長からの依頼は“なくなった”のだ。

 

 

 「よーう横山君。ちょっと聞いてもいいかい」

隣の課の松川が声をかけてきた。松川はこれまで出先機関で働いていたが、去年定年を迎え、再任用をきっかけに部署移動となり、隣の課に来たのだ。横山は松川があまり好きではなかった。松川は仕事をしない。仕事ができないといってもいいかもしれない。これまで40数年の仕事で培ってきたものが何もないのだ。現役であれば上司が育成にかかるのが当然ではあるが、再任用で能力のない人間に仕事が振られるはずもなく、業務時間中はネットニュースと天気予報を見ているところしか見たことがない。それで人並みの給料をもらっているかと思うと、ある程度真面目に働いている自分の行いがバカバカしくなる。とはいえ、このような哀れな状態になりたくはないが。

 「今回の補助金の採択って何件くらいになったのさ」

 それを知ってどうするのだろう。この人はこの事業には、正確にはこの事業“にも”関係ないのに。お情けで形式上参加メンバーとはなっているが実際この人がやることは一切ない。つまりこの質問の時間が丸々無駄なのだ。

 松川の質問に適当に答え、横山は席につく。どうしてこんなことがまかり通っているんだ。それなら自分の給料を上げるか使える人員を増やしてくれればいいのに。そんな思いが横山の頭の中を回る。

思い立った横山は書類を保管する倉庫にいた。

「あった。これだ。」

少し埃っぽい倉庫を探し回り、手をかけたファイルの背表紙には「永年保存」の文字。ファイルを開くと、歴史を感じさせる変色のある起案がいくつも綴られていた。その中に、目的の起案を見つけ、手を止める。市役所の規定を改定した時の起案だ。その規定には、給与に関する規定も含まれていた。

“起案で定められたものを変更できる力”がこれほど過去の起案に対しても有効であるなら、規約も、給与も変更できてしまうはずだ。

「少なくともあのオヤジよりは俺のほうが働いてる。なんだかんだ真面目に仕事してるんだ。もう少しくらい給料もらってもいいんじゃないのか。」

 

 

 朝、横山が出勤すると、隣の課の松川の席が物置き場所になっていた。

 そこにはしばらく使わないような書類等が雑に置かれていた。どう見ても所有者のある机には見えなかった。周りに聞いてみても「前からこうだ」という反応ばかりであり、松川について聞いてみると、「定年で退職したじゃん。どうした、大丈夫?」と心配された。再雇用されていないことになっている。

 その日、帰りに銀行に寄ってみると、預金残高が明らかに増えていた。大きな額の振り込みがあったわけではない。毎月の給与振込額が増えていた。去年の分から全て。

考えうる可能性は1つであった。横山の給与アップの起案が承認され、その結果予算が減り、松川の再任用が不可能になったため、“なくなった”のだ。

「いなくなった…ということは再任用ではなくなった…あの人はこれからどうやって生活をしていくんだ…いや、仕事をしない人間が再雇用されていること自体がおかしいんだ。こうあるべきなんだ。確実にいい方向に、あるべき方向に向かったんだ。」

 

 

 

 うええ、最悪…という空気が課に漂っていた。

会計検査にあたったのだ。公的な資金を適正に使用しているかの検査が外部機関によって行われる。突き詰めればすべての公的資金に対して実施されるべき検査であるが、時間がどれだけあっても足りないため、いくつかの事業をピックアップして実施される。

 K市役所ではもちろん不正を働くなどはしていない。だが、思いもよらない指摘を受けたり重箱の隅をつつかれたりするため、会計検査は嫌なものだった。

横山の担当する事業も検査の対象となったため、書類の確認をしていた。もし不足する資料があれば、検査の前に補填しておかねばならないのだ。

横山は“最近”手元に戻った過去の起案もチェックし、ファイリングした。

 

 

 

会計検査当日、朝から黙々と検査員が書類をチェックする間、することもない横山は自席でコーヒーを飲んでいた。会計検査では、検査員が書類をチェックし、何か不明点等があれば担当を呼び出して確認するという流れになっている。そこで言い訳ができなければ書類整備をする羽目になる。悪事を働いていた場合はここで発覚し、面倒なことになるのだ。

検査員の細かな質問にたびたび内線で回答しながら、横山は自席で細かい仕事を片付けていった。

 

17時に差し掛かったころ、横山に検査員から呼び出しがかかった。簡単な質問等であれば内線で済ませることができるので、今回は厄介な質問であることがうかがい知れる。横山はため息をつきながら検査員のもとへ向かった。

検査員が書類をチェックしている会議室のドアを開けると、神妙な面持ちの検査員がこちらを見ていた。何かまずいことがあったのだ、と察した横山は背中にじわり、と汗をかくのを感じた。

「横山さん」

「はい」

「あなた、過去を変えましたね?」

「えっ…」

想定しない質問に横山はうろたえた。あの起案の話であることは間違いない。しかしあれは過去を変え、都合のいいように調整するものだったはず。誰にもわからないはずではなかったか。

「ファイリングされていた起案の紙を見てピンときました。一部の起案だけ紙の色が新しく、時間の経過やいろいろな人の手に触れたことが分かる“よれ”がない。公印の朱肉の色もここだけ鮮やかだ。一部の書類を差し替えるならよくある話ですが、これに関しては1起案分ごっそりと変わっている。こんなことは普通しませんよね。」

横山は押し黙るしかなかった。検査員の言っていることは正しい。しかしこれを認めるわけにはいかない。

「それについては、以前コーヒーをこぼしてしまっていまして。検査員の方が来られるということで、新しい紙で起案を整備し直したんです。混同してしまわないよう、前の起案はシュレッダーにかけました。」

苦しい嘘だった。しかしこう言うしかなかった。

「この市役所、ほかの市役所よりも少し給与が高いですよね。どうしてですか?」

「さぁ、わかりません。そこも魅力で入庁しました。はは。」

「これまでこの市役所では定年を迎えた方は皆さん再雇用を希望されて65歳まで働きますよね。この前退職された松川さん、なぜ再雇用を希望されなかったんでしょうか。」

「その部分については存じません。市役所の中でも上層部と話をしているようなので」

 ばれている。明らかにばれている。最近起案した件をこんなにピンポイントに聞かれるのはおかしい。

 「されましたよね、さかのぼり起案。」

 「起案等は国や県のやり方に準じて実施しています。問題はないかと考えています。」

 「あくまで認められませんか。では仕方ありません。それを立証する術は今の私にはありませんから、問い詰めるのはやめにします。なので、1つだけお願いです。私の立会いのもと、1つ起案をしてもらえませんか。上司の方には私から説明します。悪い風には説明しませんので安心してください。あくまでこの会計検査の結果を周知するもので、国の方針であると説明します。」

 「わかりました。」

 ただあちらの指定の起案をするだけなら簡単だ。ただの起案は一般的に行われる起案でしかなく、通常の効力しか持たない。

 「起案のタイトルは、『会計検査結果等について』とでもしておいてください。そして、添付してもらう資料はこれです。」

 会計検査結果及び修正するべき事項について、と書かれた少し厚めの書類を受け取る。10ページくらいだろうか。パラパラとめくってみると最後のページには

「なお、4/1、7/31、10/1起案の過去起案改変及びそれに係る影響等については、以前の状態に修正することとする」

と書かれていた。

 「すみません、これは一体…」

 「なんでもありませんよ。上司の方から何か言われたら私の方からご連絡いたしますので、教えてください。“国の決まり”で書かなければいけない文言なんです。」

 訳の分からない文言を加えて上司から何か言われないはずがない。しかし、今はことを荒げずおとなしく検査員に従うしかなかった。何よりも、誰にもばれないと思っていた“力”のことを知っている人間が現れたのが恐ろしかった。

 会議室からオフィスへ検査員を案内し、起案に必要な書類を印刷する。

 「起案の準備ができたら、起案してください。それを見届けたら、私は帰りますので。上司の方にもご挨拶していきます。」

 「わかりました。」

 書類を整え、とりあえず急ぎだから、と隣の席の同僚に起案文書への押印を求めた。

 「違いますよ横山さん。そうではなく、あちらの起案箱に入れてください」

検査員は、部屋の隅の起案箱を指さした。

 

横山は、起案箱まで歩いている間必死に普通の起案で済ませられないか言い訳を考えていたが、

 

 

 

 

思いつかなかった。

 

 

 

 

 手に持っているのはただの起案であり、入れる先はただの起案箱であるから。

 

 

 

 

「ありがとうございます。これで今日の検査は終了となります。検査結果を記した正式文書については後日郵送させていただきますね。こちらでも起案してから押印して郵送するので少し時間がかかるかもしれませんが、

 

 

 

 

 

 

 

忘れないでくださいね。」